2004/06/08

権力--Gewalt--暴力

たまには、僕の専門のことでも。
いま、「暴力」、「権力」について勉強している。もともとは、カール・シュミットの例外状態を検討の対象としていた(これについては、http://www.dai-rol.netからどうぞ)。そこから進んで、法秩序の及ぶ範囲、さらには、法の強制力へと延びていった。もちろん、そこには、法の正当化根拠も含まれている。
タイトルにもあるとおり、ドイツ語は英語とは異なり、「暴力」と「権力」とは同じ言葉で、"Gewalt"となる。その感覚でいえば、「権利」、「法」も"Recht"である。名詞Gewaltは動詞waltenの受動名詞であり、「waltenされたもの」が語源である。"walten"とは「管理・統治する」という意味であり、したがって、Gewaltの考察においては「管理・統治する」のは誰なのかということが重要となる。これは、Gewaltの保持者(僕はGewalthaberと呼んでいる)と一致しないこともある。
さて、僕の思考のベースには、シュミットがあるのは当然だが、"Gewalt"を考えるにあたって、「暴力」では、ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)を第二ベースとして、「権力」では、ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)を第二ベースにしようと考えている。もちろん、両者とも、クロスして"Gewalt"を考察しており、パシッと分けられるものではない。今は、フーコーまであとちょっとである。つまり、まだ、足りない。その関連では、アガンベンは「ホモ・サケル」を読み直し中であり、なかなか面白い。
最近酒井隆史著「暴力の哲学」という本をたまたま本屋で発見して読んだ。なかなか面白かった。勉強になった。しかし、個人主義と全体主義とは必ずしも背反しないという指摘はもっともだが、そこで安易に集団性が必要と運んでしまったのは勇み足だった。
野にこもる修行僧的個人主義でない限り、集団性=社会性は、当然の前提となっていることであり、社会が共同体が国家が、すなわち、集団がいかなる性質を帯びているか、そしてその集団が「個」にいかなる影響を与えるのかを重視するのが個人主義の集団へのアプローチである。何らかの集団が必要というのは、何かを言っているようで、何もいっていないに等しい。
まあ、それよりも、本筋に戻そう。その本で気になったのはシュミットの有名な定義「主権者とは、例外状態に関して決定を下すものである」"Souverän ist wer über den Ausnahmezustand entscheidet."である。それをその本では「例外状態において」としている。この違いはとても大きい。同様のことを杉田敦法政大学教授もやっていた。ドイツ語の"über"+4格名詞は英語での"toward", "beyond"に該当する。つまり、通常状態から例外状態へと移行することを宣告する権限者"Gewalthaber"である。移行した後の例外状態においては宣告者が決断を下すものとは限らない。ヴァイマール憲法においては、大統領の権限であるが、その権限は上で述べた"die waltende Gewalt"なのであり、大統領に配分された権力である。大統領は主権の行使者であるが、主権者ではない。しかし、例外状態を宣告しうるという権限においては「至高(souverän)」である。
詳しくは、http://www.dai-rol.net/studies/papers.htmlで、「Carl Schmittの通常状態と例外状態」を見てほしい。これは、ずっと言ってきたことなのだが、どうも今でも見られたので、つい久しぶりに言いたくなった。

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